テキスタイル業界から有機農業へ ナラヤン・ダス・プラジャパティのストーリー

Ayurveda Lifestyle | 07 October 2025

1980年代後半のこと。繊維工場はフル稼働し、商売は隆盛を極め、ナラヤン・ダス・プラジャパティ氏の暮らしは安定しているように見えました。あらゆる面で、彼は「成功を手にした」と言えました。

しかしある夕暮れ、故郷の近くの川沿いを歩いていた彼は立ち止まりました。かつて澄んでいた水は濁り、命の感じられない流れとなり、空気は化学物質の臭いが漂い、土は疲弊していました。周囲の風景が傷ついて見えたのです。

その瞬間、稲妻のように思いが胸を貫きました。
「私は布を織り、事業を築くことはできる。だが、空気を生み出せるか?水をつくれるか?もしそれができないなら、私はそれらを壊す権利があるのだろうか?」

快適さよりも目的を選ぶ

1988年、50歳のとき。多くの人がこれまでの努力の果実を味わい、穏やかな暮らしを選ぶ年齢に、プラジャパティ氏は逆の道を選びました。繊維業を辞し、未知の領域――有機栽培――へと踏み出したのです。

当時「有機」はブームでも実利的な選択でもありませんでした。非現実的で採算が取れない、理想主義だと片付けられることが多く、友人たちには道を誤ったと見られました。しかし彼にとって選択は明快でした。地球を犠牲にする快適さなど、快適とは呼べないのだ、と。

有機への険しい道

始まりは試練の連続でした。作物はすぐに育たず、化学肥料や農薬を使わない生産物は市場で正当な評価を得られませんでした。彼はしばしば孤独に、大きすぎる夢を抱えて歩きました。

それでもプラジャパティ氏は諦めませんでした。土から学び、伝統的な知恵を信じ、自然のバランスを取り戻すために心血を注ぎました。彼が蒔いた一粒一粒は、単なる栽培ではなく、地球をゆっくりと蝕む汚染への小さな抗いでもありました。

農を越えた癒し

彼のつくったものは単なる畑ではありませんでした。そこは持続可能性を体現する「生きた教室」でした。訪れる人々は作物だけでなく、繁栄と自然が共に育つという彼の哲学に触れました。

彼は地球を使い捨てる資源ではなく、敬うべき母であると信じていました。彼の旅の目的は富を増やすことではなく、未来の世代のためにまだ肥沃な地球を残すことにありました。

道を照らす遺産

あれから30年以上が経ち、世界はようやく「有機」を未来の選択肢として語るようになりました。プラジャパティ氏にとって、それは流行ではなく責任でした。

彼の物語は、最も勇敢な旅が必ずしも若さに始まるわけではないことを教えてくれます。時には、それは50歳で、かつての成功を問い直す勇気から始まるのです。

今も鳴り響く問い

気候変動や水危機、有害な食のシステムに直面する今、彼の問いはなお深く胸に響きます。
「私は、水も空気も生み出せないのに、環境を汚す権利があるのだろうか?」

その答えは言葉ではなく、私たちが取る行動――日々の選択の中にあります。